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2001年7月

「千と千尋の神隠し」の「いつも何度でも」がiPhoneから流れてくる。書き物をしていた手を止めてしばらく聞き入る。セミの鳴き声、タバコの自販機、汗だくになって張り替えるコンビニの弾幕、猿の惑星のペットボトルキャップ。クソみたいな愛すべき2001年7月。

 

その頃の僕はと言えば、ただただコンビニでアルバイトをしてはパチンコを打つか風俗に行くかという堕落した日々を送っていた。就活をする同級生と駅ですれ違うと何もしていないのにコソコソと隠れ、働いているコンビニに知り合いがやってくると裏の冷蔵庫の整理に回ってジュースの隙間から彼らが帰るのを待っていた。

 

本気で死んでもいいと思ったのもこの年だ。パチンコに負けたらもうどうにでもなれと、友達が住んでいるマンションの11階、非常階段の手すりに座って別府の街を眺めて足をブラブラさせながら明るくなるまで買ってきたビールを飲んだ。

 

コンビニの仕事は楽だった。大手ではなくマイナーな店だったからかもしれない。それも直営店ではなくて、同じ敷地にあるカラオケとオーナーが同じのフランチャイズで、カラオケに来る客のためのちょっとした売店のような店だったし、店にある什器はどれも古く店内はいつも薄暗かった。

 

知っての通りコンビニにはいろんな客が来る。万引きもたくさん来たし、クレーマーも来る。認知症で家が分からなくなったじいさんも来るし、弁当の廃棄の時間を狙ってやってくるホームレスもいる。一度、中学校の時に生活指導をやっていた厳しい先生が来たことがあった。彼は僕に気が付かず出会い系の本と携帯電話の充電器を買っていった。彼がその出会い系の本で何をしていたのかは知らないけれど、当時は援助交際という言葉が九州の田舎でも流行りまくっていた時代だった。

 

そうだ、親父も来た。真昼間に作業着を着て入店してきた親父はビールを6缶買い、「お父さん」と呼び止めると「なんやお前、こげなとこおるんか」と嬉しそうに5千円置いて行った。親戚のおじさんがまったく知らない女の人と腕を組んでやって来たこともある。「おじさん」と呼び止めると「なんやお前、こげなとこおるんか」と緊張した面持ちで3万円置いて行った。誰もかれも別府の田舎にぼんやりと光る街灯に寄せられて虫のように飛んできてはどこかへ去って行った。

 

やがてパチンコも風俗もどうでもよくなった僕はいよいよバイト帰りにマンションの11階にばかり行くようになった。別府の夜の街はいつもきらきらと輝いてきれいだった。遠く、大分市の方からひときわ明るい光の線が空に現れる。ラブホテルの照明で、指揮者の棒みたいにくるくると円を描いている。それに合わせて僕も手を振り足を振り、いつ落ちてもいいや、と思いながら夜な夜な酔っぱらった。家に帰るとすぐに寝て、また昼からコンビニに行く。コンビニでは寄ってきた虫たちの相手をする。それが終わると今度は僕がマンションの11階に寄せられる虫になる。こんなことばかり繰り返していた。

 

一人だけ、今でも強烈に覚えている客がいる。僕が勝手に「鬼殺し」と呼んでいた客だ。鬼殺しは車で店の前の駐車場に付けると、ライトでカウンターを照らしパッシングをする。それでも僕らが気が付かないときは遠慮がちにクラクションを鳴らす。外に出て鬼殺しの車の運転席へ行くと、彼は窓からお金を僕らに渡し、鬼殺しと1.5リットルのコーラ、タバコのハイライト、それからチキンを3つ頼む。車から出られないのだ。今思えば彼は重度の糖尿病だった。僕が3人くらい入ってしまいそうなほどの大きな体だった。

 

一度、運転席に座る鬼殺しの足を見たことがある。短パンに裸足で運転していた彼の足は黒く変色しボロボロと皮膚がこぼれ落ちていた。車内は彼の臭いが充満し、思わず吐いてしまいそうになるほど強烈な臭いだった。

 

彼が日ごろどういう生活をいていたのかさっぱり分からない。おそらく車上で生活していたのだろうと思う。店長は「店が混んじょんときじゃなかったら、なるべく対応しちゃれ」と言ったが、アルバイトの女子大生は上手く逃げ回り、結局そういうことに抵抗がない――というより興味の方が勝ってしまう僕が鬼殺し担当になっていった。

 

久しぶりにやって来たとき、彼に渡された小銭には彼の剥がれ落ちた皮膚がこびりついていた。レジの中に入れて釣銭にするわけにもいかず、歯ブラシと洗剤で彼からもらった小銭を洗っていると、店長が「それなんね?」と聞いてきた。いつものドライブスルーのと答えると、店長は「わかった」と言って外に出て行った。なんとなく気になり、外に出てみると駐車場の奥の方で鬼殺しを飲みながらチキンを食べている彼と店長の会話が聞こえてきた。

 

「駐車場で堂々と飲酒運転はいけんで」

「わかっちょんよ、ごめんね」

「病院行きよんかえ」

「行ってねえんよ」

 

飲酒運転を咎められたことがこたえたのか、それから鬼殺しはめっきり来なくなった。それからしばらく経ってすっかり彼の存在も忘れたある夏の日だった。2001年7月。当時、店内放送では公開されたばかりの千と千尋の神隠しの「いつも何度でも」が頭がおかしくなるくらい流れ続けていた。あまりにもうるさいので、外に置いてあるタバコの自販機を補充するという仕事を引き受け、なるべく店内にいないようにしていたくらいだ。その日も、早々に自販機の補充をやってしまった僕は、脚立に立って店の入り口の上にある弾幕を張り替えていた。その時、後ろから「兄ちゃん」と声がした。

 

振り返ると、脚立の下で鬼殺しがこっちに向かって手を振っているのである。車の中からではなく、立って。脚立を急いで降りて「いらっしゃいませ」と声をかける。

 

「兄ちゃん、もう大丈夫になったけん」

 

鬼殺しはそう言うと、ゆっくりではあるが自分の足で店内に入って行った。それから自分の足で1.5リットルのお茶を持ってくると、「タバコだけは辞められんに」とハイライトを買って出て行った。しばらくポカンとして、ゆっくり歩いていく鬼殺しの後ろ姿を眺めていた。出勤してきた店長にそのことを伝えると「へえ」と言ったきり特に何も言わなかった。まがいなりにも感動している自分に対して妙に冷めている店長に腹が立ち、「へえって。店長が言ったからあの人改心したんですよきっと」と興奮しながら言うと、店長は「あのな」とぼんやりコンビニの防犯カメラ映像を見ながら言う。

 

「あのな梶原。他人にも自分にも変な期待はせんこっちゃ」

 

鬼殺しが立った奇跡の日から数か月後、店長からコンビニが閉店することが伝えられた。なんでも近くにファミリーマートができたことで売り上げが激減し、オーナーが同じ敷地内にあるカラオケ一本でいくことを決意したらしい。すでにコンビニのアルバイトの何人かにはカラオケで引き続き働いてほしいと店長から言われているらしく、僕もきっと声をかけてくれるものだと思っていた。

 

ところが、いつになっても店長は引き続きカラオケで働いてほしいという話をすることはなかった。自分が一番仕事ができると勝手に思っていただけにどうしても納得がいかなかった。それでも、自分から店長にその話を切り出すのは負けたような気がして何も言わなかった。

 

在庫一斉処分と題して店の商品がすっかりなくなったある日のこと、レジに立っていると目の端にチラチラと光るものが見えた。外を見やると鬼殺しの車が停まっている。まさか、と思って外に出る。運転席側に立つと窓が開く。

 

「兄ちゃん、鬼殺しまだあるかな?」

 

その瞬間、途端に怒りがこみあげてきて「この店、もう閉店するんで、鬼殺しもチキンもタバコもないです!」と大きな声で言っている自分がいた。鬼殺しは、そうか、とぼんやりした顔で言うと、ありがとな、と言って車を出した。馬鹿野郎が。せっかく回復したのに。そう思いながら噛んだ下唇から鉄の味がする。いらいらしながら店内に戻って、商品の整理を続けているとカラオケから電話が鳴る。店長が氷を持ってきてくれと言う。

 

そのときすでに店長はカラオケの店長も代理しており、コンビニにはほとんど来ることはなくなっていた。アルバイトの大学生に店を任せるとカラオケに氷を持って行く。カラオケでは店長がバタバタとドリンクを運んでいるところだった。じっと立っているのも悪い気がして部屋からの電話を取りドリンクを作る。しばらくして落ち着いて「すまんね」という店長に鬼殺しのことを話した。

 

「そうかあ、かわいそうになあ」

 

やはり店長はそういうだけで特に何か自分の考えを言うわけでも、鬼殺しをののしるわけでもなかった。ほらなとかなんだとか言ってくれたらいいのに飄々としてるところがまた癪に障った。何とも言えない顔をしていると店長が言う。

 

「梶原、おっさんから渡された小銭を黙って磨いているお前は俺が面倒みんくてもどこでもやっていける人や」

 

それから数日後、コンビニは閉店した。毎晩のように行っていたマンションの11階も途端に馬鹿らしくなって辞めた。京都にいた短大の同級生に電話をかけると暇ならこっちに来ればと言われた。それもまたいいと思った。つまらなければ帰ってくればいいんだ。他人にも自分にも変な期待なんかせんこっちゃ。久しぶりに清々しい気持ちだった。

 

京都に行く日、カラオケに寄った。店の前でゴルフクラブの素振りをしていた店長は「おお」と嬉しそうに手を挙げた。京都に行くことを伝えると飲みに行くかと言う。今日出発することを伝えるともっと早くこんかと寂しそうに店長は言った。その顔に鼻の奥が急に熱くなって手短に挨拶をすませると逃げるようにカラオケを出た。コンビニの帰り道にいつも眺めていたさんふらわあに乗り込む。船が港を出る。振り返ると別府の街。遠くに11階建てのマンションも見える。そこから手を振る自分がいる気がして、手を振り返した。

 

それから15年後。僕は病院の相談員になった。病院に入院する人々は色んな人がいる。ある日、担当した支援が上手くいかなかったことがあった。初めて担当したケースだったから気を遣ってくれたのだろう。上司は「まあまあこういうこともあるよね」と言ってくれた。内心、がっくりきていたが「他人にも自分にも変な期待してないから大丈夫ですよ」と強がった僕に、上司は「ははは」と笑い飛ばしながら言った。

 

「梶ちゃん、それ相談員の基本」

手の洗い方

「風が吹くとき」という漫画がある。絵本の「スノーマン」を描いたイギリスのレイモンド・ブリッグズという人の作品で、イギリスの田舎に住む老夫婦が、国が発行した核兵器に対する対処方法を書いたパンフレットの通りに準備するものの、実際に爆弾が落ちたあとその対処方法は何の意味もなく二人は死んでいくという話。ニュースを見ていたら小さいときに図書館で読んだこの漫画をふと思い出し、急に読みたくなって買いに行った。

 

この作品中に登場する「国が発行した核爆弾に対する対処方法のパンフレット」というのは、「Protect and survive(防護と生存)」という当時1980年代にイギリスの政府が実際に発行したパンフレットをもとにしている。内容は「家から出ないようにしてください。家の中にはシェルターを作ってください」というようなもので、核兵器に対しての対処法としてはまったく無意味なものだ。「風が吹くとき」の夫婦もこれにならってけなげに家のドアをたくさんはがして壁に立てかけ、一生懸命シェルターを作る。妻は「ドアのペンキを剥がさないでくださいね」と呑気なことを言い、夫は「なに、国が言ってるんだから間違いないよ」と信じてやまない。

 

最後までこの呑気な会話が続いていく中に恐ろしいほどのリアリティがあって、例えば「ヒロシマでは服の柄の模様のせいでひどい火傷になったらしいから、白いシャツはなかったかな?」という夫に対して、妻が「クリスマスにおろした新しいシャツは着ないでくださいね。爆弾用なら古いシャツで十分ですよ」という会話なんかはぞっとするほど真実味がある。

 

当然核兵器がどんなものか知っている者からしてみたら、いや白いシャツを着たところで、いやドアを立てかけただけのシェルターを家に作ったことろで、という気持ちになるのだが、この漫画の恐ろしいところは、これが核兵器ではなくまったくの未知の物に対してならば、僕も彼らのようになってしまうのではないかと想像してしまうところだ。

 

「風が吹くとき」の老夫婦にはたった一冊の国が発行したパンフレットだけが頼りだが、つい昨日まで信じていたことがデマだったということがすぐに判明するくらい情報が溢れている現在ならどうだろう。テレビや新聞やネットに流れていることは本当に全部正しいだろうかと、こんなふうに常に情報に対して敏感でありたいなと思うけれど。

 

昔、結膜炎になったことがあった。結膜炎は感染力が強くて、診察に行った眼科では座る席を指定されたし、お釣りも手渡しではなかったし、僕が触ったところはすべて消毒していたくらいで、「目を触った手で何かを触ってはいけないよ」と医者に教えられ、うつしてはいけないと自分で目を触らないように眼帯をして眼鏡をかけてバイトに行ったほどだった。

 

とはいえ、もちろん空気感染なんかはしないのだが、当時のバイト先の店長は「結膜炎は空気感染をするからね」と言い張って聞かなかった。あんまりしつこいので「どうやって空気感染するんですか?」と尋ねると「それは……だからその……目からピュッと出てくるんだ!」だそうだ。所詮、医学を学んでいない人の知識なんてそんなもんだし、人の振り見て我が振り直せ、彼を笑えないほど僕もそうやって勘違いしていることはたくさんあるんだろう。

 

新型コロナウイルスについて怖いのは、「風が吹くとき」の老夫婦やバイト先の店長のような善良な民衆が特定のプロパガンダによって扇動されていく様子だ。政府が動いても動かなくても批判する側の人間も、人種差別を始める側の人間も含めて、なぜだかここぞとばかりに賛同者を獲得しに行こうとする火事場泥棒のような様子が見ていて恐ろしい。何が怖いかってそんな火事場泥棒が、自分のことを火事場泥棒だと思わず善意で行っていると信じ込んでいることなんだけれど。でも善意だし、むげにはできないからいったんお礼を言っとこう。ありがとうございます。政権批判や政権称賛大いにやっていただいて結構ですが、有意義な情報発信もぜひお願いします。

 

という皮肉めいた愚痴はおいといて善意ついでに僕からも「Protect and survive」を。手の甲が自分に見えるように両手をパーにしてみてください。広げたら左手の親指を右手で握り込んでください。握り込んだらバイクのハンドルをヤンキーがブンブンやってる時みたいにぐりぐりしてください。これが病院の研修で学んだ手洗いの時に見逃しがちな親指のしっかりした洗い方。

面白いことするっていう責任感しかねえわ

 

仕事を辞めた。いろいろ理由はあったけれど、ある人の「自分が死んだとき、俺はここまでやったぞって先に死んだ家族に胸を張りたいもんだよね」という一言が決め手だった。ありがとうございます。

 

この歳になると琴線に触れるような言葉を見つけるのは難しい。きっとたくさんいい言葉は飛び交っているのだけど、プライドなのか何なのか「あんたいいことを言うね」と思えなくなってしまう。何歳になっても誰かが放つ言葉には敏感でありたいな。

 

話を戻して。仕事に行かなくなったのは1月15日から。次の職場はもう3月中旬からと決まっている。何の後先も考えずに仕事を辞めるわけにはいかなかったから(と思えるようになっただけ成長)1年間かけて準備をしていた。もうずいぶん前にこの日だと決めていた1月14日、退職する旨を上司に伝えてそのまま午後から有給をぶち込み、「それではこれで」とまるで噺家が噺を終えたようにさっさと職場を出た。職場には退職理解派と反対派がいたから、反対派の誰かが追いかけてくるんじゃないかとひやひやしながら駅まで歩いた。軽くスキップしていたかもしれない。いやしてたな。

 

帰りの電車の中では退職反対派の人々の電話をすべて着信拒否にして、ラインもブロックして、と案外忙しく、気が付けば烏丸駅まで乗り過ごしてしまったもんだから、そのままフラフラとヨドバシカメラまで行って何となく入った無印良品で買い物をした。後で聞いた話では、僕が無印良品をうろうろしているこの間に、職場ではカジワラを探せ!とひっくり返っていたらしい。それでも3日経ち、7日経ちしているうちに落ち着きを取り戻したそうだ。そんなもんだ。

 

今の職場を辞めたいと思っている人はたくさんいると思うけれど、仕事を辞めるということに対して後ろめたさを感じたりする必要なんてまったくいらない。今ここで辞めたら誰かが困る、仕事の途中だから、とか考えなくていいよ。僕は主任という役職が付いていたけれど、在職中にこんなことを言われた。「なぜお前に役職をつけるのか、それは役職が付いていた方が辞められないだろ? それが責任感だ」だとさ。馬鹿らしい。主任だろうが課長だろうが部長だろうが社長だろうが辞めたきゃ辞めるよ。そんな糞みたいなことよりも自分が自分らしく生きることに責任を果たすべきだ。

 

というツイッターに時々あがってくる転職サイトの記事みたいなことはおいといて、休むということはすごく大事だなと思って。ストレスか何か知らんけど働いている時は左目のまぶたや左のほっぺがずっと痙攣してたのが1月15日からまった痙攣しなくなったし。ストレスなんて感じないタイプの人間だと思ってたけどなあ。

 

これだけ仕事をしなかったのは20年ぶりくらい。今まで周りきれていなかった京都の幕末史跡を見て歩いてみたり、ソロの曲を作ってみたり、好きなことをやってるよ。どうせ3月からはまたもりもり働くんだ。今だけ人生の夏休み。

 

休みついでにうちのオカンのゲップが変ていうことだけをひたすら紹介するぶっとんだ企画をやるよ。あー大丈夫大丈夫、面白いことをするっていう責任感は人一倍あるから。

 

「バーイヨナイト」

2020年2月29日(土)

ダレカンチにて20:00ごろから。チャージはフリー。

 

遊びに来てね。